白内障手術の歴史

2017/12/25

このコーナーでは、イナミ公式キャラクターeyenamix α(アイナミックス アルファ)がストックしている(=必死でかき集めた)使える営業ネタや、知っていて得すると思われる業界情報をお伝えしていきます。

紀元前800年

インド亜大陸のベンガル地方(今のバングラデシュ)に「スシュルタ」という学者が、無麻酔で鍼針金を眼球に刺し、水晶体を脱臼させ硝子体内に落とす方法「墜下法」を医学書に記す。
(白内障手術の始めであり、スシュルタ先生を白内障治療の元祖とされている)

西暦100年代~

ローマ時代の西暦紀元1世紀、医学が栄え、セルズスという学者が記した百科事典の中に白内障手術の方法が詳しく記載されていまる。(スシュルタと同じ鍼を用いる「墜下法」)

ローマ・ギリシャ時代の文明において、「白内障は脳から濁った水が滝のように落ちてきて眼にたまったもの」とされ、後のヨーロッパ文芸復興の時代では、イタリアの僧院でこれを翻訳し滝を意味するカタラクタ(CATARACT)と言う言葉を用いた。(今日の白内障の語源)

ローマ帝国時代のギリシアの医学者であるガレノスは、剣闘士養成所で外科医として勤めるなどの経験から、多くの臨床経験および多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代医学の集大成をなした。(ガレノスの学説はその後1500年以上にわたり、ヨーロッパ医学、イスラム医学において支配的なものとなった)

西暦1355年頃

インドから中国を経て日本に白内障手術が伝わる。
室町時代(西暦1355-60年)のことで、名古屋の馬島清眼僧都という高僧が始めたという記録がある。方法はやはりスシュルタと同じ鍼を用いる「墜下法」であった。

西暦1700年代

フランスの眼科医によって眼の構造が明らかになる。白内障は水晶体が濁ることであることが始めて分かった。

西暦1745年ごろ

眼の構造が解明された後、フランス宮廷医ダビエルは角膜を切って白内障を取り出す「白内障摘出術」が考案。
この手術は角膜輪部を180度くらい切開する必要があり、術後は、レンズがなくなり、厚いレンズの入った眼鏡で矯正しており、見え方はかなり不自然であったと記録されている。

西暦1823年頃

オランダからシーボルトが来日し、白内障摘出術を伝授。(虹彩散大薬や虹彩開口術なども)
日本の医学者からは古来式ではあるが日本の精巧かつ繊細な器具を使用した「墜下法」の方が優れていると考えられていた。

西暦1850年頃

「摘出術」と「墜下法」の是非を巡り論争が繰り返されたが、ウィーンの専門家が、「摘出術」の成功率の高さを立証。

西暦1884年頃

眼の麻酔法、消毒法などが開発。(以前の手術は体を寝椅子に縛り付けられ、痛みに耐えていた)

19世紀

ドイツのグレーフェが,線状切開法により白内障手術を飛躍的に前進させた。(嚢内摘出術や嚢外摘出術)※グレフェー刀でお馴染み!!

リドレー医師が「眼内レンズ」を発明。その後アメリカのケルマン医師が超音波乳化吸引装置(危険であった)を発明。

1960年代

冷凍法にて水晶体を吸い付けて全摘出し、術後は分厚い凸レンズの眼鏡。

西暦1970年代

水晶体嚢を残して水晶体の核を娩出し、これを利用して眼内レンズを固定。しかし角膜内皮細胞などに障害が生じ、術後炎症や術後乱視が起きた。(切開層11mm)

西暦1980年代

超音波乳化吸引装置が進歩し普及。核を分割して破砕し吸引除去し、眼内レンズを水晶体嚢に固定。 (切開創6mm)
⇒その後折り畳み眼内レンズが発明。(切開創3mm・小切開時代へ)
⇒眼内レンズの保険適応と高齢化社会の到来(手術症例数が急激に増加)

カナダの医師ハワード・ギンベルが「ディバイド・アンド・コンカー」という核を分割した後に超音波で吸引する手技を開発。

西暦2000年代

小切開術(切開創3mm弱)が主流。現在国内で年間約100万眼以上の白内障術が実施。